築上高等女学校・築上中学校・築上中部高等学校 同窓会関東支部

【レポート】高校正門やヒマラヤ杉並木の跡を歩く ~旭桜会館、校訓源の碑、校名碑、鎮魂碑を巡って~

2025.05.06

高校23期の永家(ながや)です。2025年4月下旬、築上町椎田に帰省した際に、豊前市今市の築上中部高校跡に立ち寄りました。正門跡から北へ約100メートル続く「ヒマラヤ杉並木」のあった道を歩き、道の西側にある旭桜会館、校訓源の碑、校名碑、鎮魂碑を巡りました。ここを訪れたのは50年ぶり。懐かしさがこみあげてきました。

正門跡から南側には、豊前市内の中学校を統合する「豊前中学校」の新校舎が建設され、令和9年(2027年)4月に開校予定です。しかし、今は見渡す限り、空地が広がっています。並木のあった道にはその形跡は全くありません。道の西側は旭桜育英会の所有地で、正門近くに2階建ての旭桜会館が建ち、その北側の旧テニスコートはグランドゴルフ用に貸し出していたところです。会館も昨年7月まで民間企業に貸し出し、賃料収入を育英資金の足しにしてしたと聞いています。現在、建物は使っておらず、ひっそりとしていました。

旭桜会館の東端の屋外に「校訓源」と書かれた、小さな碑を見つけました。私は高校生のときに校訓を教わった記憶がありません。それもそのはず、校訓が制定されたのは平成9年(1997年)の創立80周年のときだからです。「文武両道」が伝統だとは知っていました。

「校訓源」によると、築上中部高校や前身の築上中学校、築上高等女学校の校歌の一節を採って「自律 向上 貢献」を校訓に定めました。モットーの「文武両道」は。実践目標として掲げるとしています。

ヒマラヤ杉並木だった道を進むと、北端東側に高校名の碑と鎮魂碑が現れます。秀麗な形の大岩を使った高校名の碑は薄っすらと記憶にあります。旧字体の活字のような文字で、モダンさと重厚さを兼ね備えているように思えます。鎮魂碑の正式名は「若桜鎮魂之碑」。太平洋戦争の戦局が悪化する中、学業半ばで築上中学校から海軍甲種飛行予科練習生となり、戦死した先輩の方々を慰霊しています。平成17年(2005年)に、甲種予科練生存者で作る築中甲飛会が建立したと説明しています。予科練のうち旧制中学出身者が甲種でした。

 鎮魂碑では、人間魚雷「回天」で沖縄の沖に散った上西徳英(のりひで)氏(築中22期)のことを特筆しています。その出撃前後の様子は、東京旭桜会編「開校100年記念誌」で、元東京旭桜会長の故中村格先生(高校2期)が活写しているのを思い出します。記念誌に「戦時中の築中と甲飛での体験」と題した一文を寄せた加来高任氏(築中22期)は甲種予科練生存者の一人でご健在。ご子息の加来浩一氏(東京旭桜会副会長)によると、忠魂碑周辺の清掃活動にも加わっておられた。頭の下がる思いです。

急に思い立って立ち寄ったのですが、母校の伝統や歴史の重みを改めて感じたひとときでした。(了)

※取り急ぎ複製をアップしているため画像、文字が粗くなっておりますことご了承ください。

      お知らせ 一覧